『君嘘』の何がエヴァのパロディなのか。--感想補遺

『君嘘』の何がエヴァのパロディなのか。因数分解してみると明らかになるが、そもそもそういう印象を抱かなければ分解作業に入ることはないだろう。様々な箇所に僕はそういう印象を持っていたが、もっとも典型的なのは有馬が黒猫を助けーーそこなったーーときの話である。あれはエヴァ1話でシンジが綾波を助け起こしたところと構図が一緒で、片手と両手という違いはあるが、開いた手には鮮血が滲んでおり、それが主人公の行動を縛るのである。構図やデザインのパロディという点では『交響詩篇エウレカセブン』の方がはるかに激しいが、それはそれとしてかなり『君嘘』は内容的に高度なエヴァのパロディとなっている。

たとえば有馬と母の関係はシンジとゲンドウの関係に相当する。『君嘘』がアツいのは、それだけに留まらず、有馬母がユイの属性も持っているということだ。有馬母は有馬のことを思うがゆえに厳しい指導を課すが、それゆえに有馬のトラウマとなり、しかも死んでしまったことで「母の重力」が完成してしまう。ところが最終話で彼はピアノを弾けるようになるわけだが、それは、母が自分の中にいたことを発見するからだ。これは劇場版エヴァのアスカの気付きに相当する。「ずっといっしょだったのね、ママ」ということだ。

では他の人物についてはどうか。重要人物のかをりは、見た目はアスカ中身はレイ、といったところであろう。彼女は有馬の前進を後押しするが、最後には死んでいなくなってしまう。残るのはもう一人のヒロインである椿だった。椿はアスカの「最後に残る」という役割が外科的に移植された存在である。これは、椿が「演奏」というエヴァにおける「操縦」という役割から阻害されていた点からも明らかだが、存在としては必要だった。そうでなければかをりが精神だけ生き残るというようなオカルティックな話になってしまったはずだ。かをりの「いなかったかもしれない」という存在性質は綾波レイ的なのである。一方で、有馬との合奏で見せたようなユニゾンはむろんエヴァ9話におけるツイスターゲームの変装にほかならない。

また演奏家としての有馬の競争相手が井川と相座の2名で、都合3名だったこともエヴァ的である。バイオリン奏者だということもあるが、早々に退場したかをりは4人目を構成することができなかったのだ。そもそも主要な楽器がピアノだったことは、作品の発生順には因果関係がないのだが、エヴァQとの連繋があるし、管弦楽器との関係性はもっと具体的にシンジ=チェロ、あるいはシト新生における管弦楽四重奏からも言及が可能なのである。そうして思い出してみると、実は渚カヲルはもともとピアノ弾きという設定がテレビ版のころからあり、実際マンガ版ではピアノを演奏しながら登場する。そして彼はもともとは「猫と転校生」というエピソードで黒猫とともに作品に登場するはずだったのだ。黒猫といえば、『君嘘』の中でも象徴的な役割を担っていたと前回確認したばかりである。

後のことについては忘れたが、たぶん見なおしてみれば他にも色々なことが発見できることだろう。さて、ここまで書いてきておいてなんだが、こういう作業の意義はなんだろうか。エヴァファンとしてネタ元の主張をしたかったのだろうか。必ずしもそういうわけではない。また上記の見立ても、そういう風な還元をすることがたまたま可能だっただけであって、別に必然的ではない、ということも一応は可能なはずだ。僕もそこまで精緻な分析をしたつもりはない、というかただ上から思いつきを列挙しているだけである。

では何なのかというと、要はエヴァの翻案で『君嘘』が作れてしまう、ということが言いたかったのだ。エヴァをたまたまこういう方向性に展開したら『君嘘』ができあがったのだというだけで、還元に必然性が生じないのは作業上の運命である。こういう作り方に着目したのは、たまたま最近知った岡田斗司夫式の創作法がこれと全く一緒で、非常に実践性が高いと思ったからである。

分かりやすくするために岡田式創作術を使って逆から考えてみよう。私はいま何か新しい企画を作りたいと思っているが、なかなかいい案が浮かばない。そこで大好きなエヴァを翻案してみようと考えた。ではどう翻案しようか。そういえば最近『けいおん』がブームだったから、音楽もので一つ何かできないだろうか? そうするとエヴァは結構楽器が登場するな。では楽器版エヴァをやってみよう。まさか使徒を登場させるわけにはいかないから、あくまでも演奏家のドラマをやるとして、どうしたらドラマを作れるだろうか。とりあえずシンジは親との確執がある、これは間違いない。ではどんな確執か。彼は事実上の天才パイロットだから、こちらでも天才演奏家にしよう。とりあえず天才ピアニストということにしておくか。では親が凄いスパルタ教育をしていたことではどうだろうか。しかし単に名家の跡取りとしてスパルタだとかでは面白みがない。狂気のスパルタ教育が必要だ。しかも実は子どもに愛情がある。ならば親は病気で短命だったことにしよう。残される子どもが1人でも生きていけるようにピアノの技術を身につけさせておく必要があった。しかし片親が残っているとそのモチベーションが下がるから最初から片親だったことにしよう。よりトラウマが残るのはどちらだろうか……。エヴァでは父親存命だから、こちらの作品では母親にしておこう。やはり母と息子の関係の方がトラウマも強まりそうだ…………。

この程度の連想では『君嘘』の全容を構成するにはまだまだ容量が足りないのだが、しかし、発想法としてどういう流れを辿っていったのかは理解してもらえるのではないだろうか。パロディの発見とは、こういう構造的な発想法の逆引きとも言える。それをより抽象化すれば大塚英志が主要な紹介の役割を果たしたプロップやグレマス的な物語理論にまで行き着くわけだが、抽象的すぎる枠組みは実際にはなかなか実践にはこぎつけないものだ。プルーストが言うように作品とは再現なのであって、私たちがものづくりをしたいのは何か再現をしたいからだろう。もちろん新しい風景を見たいという欲望も極めて強いものだが、やはりピーキーなものは手の動きを阻害する。たとえば二次創作が強い生成力を持っているのは支持体があるからであり、この支持体はエージェントの欲望という強い駆動力と密接にからみあっている、と僕は思うばかりなのである。