「名もなき詩」について

久しぶりに聞いた「名もなき詩」にいたく感動した。この歌は1996年にリリースされたが、このときはどうも桜井の不倫真っ最中の時期だったらしく、彼は1994年に結婚した妻と2000年に別れた。後半はずっと離婚協議中だったようだが、法的な協議に陥る前から極限的な精神状態だったことは想像に難くない。こういう事実と無関係に僕は久しぶりに聞いた「名もなき詩」に感動したので、素直な感想を述べれば、テクスト論的に読むことになる。とはいえ、こういった周辺状況を加味しないのも難しそうだ。桜井のメッセージはそれくらいシンプルで強い。

ちなみに僕が感動したところは愛とそんなに関係してない部分のフレーズである。

街の風に吹かれて唄いながら
妙なプライドは捨ててしまえばいい
そこから始まるさ
絶望、失望
何をくすぶってんだ
愛、自由、希望、夢
足元をごらんよきっと転がってるさ

これらの歌詞に自分でも意外なほど勇気づけられた。ちょうど僕が人生に迷っていて今もその真っ最中だからなのだが、上記の歌詞は非常に素朴で、まるで自分について歌われているかのようだった。この実感的な「感じ」をどうやって彼らは歌い上げているのだろうか。村上春樹の映像的な比喩を想起させるような強度を感じた。春樹の比喩は映像的だが、解釈して寓意に読み替えることが難しいような比喩である。一方、ミスチルのこの歌詞もまた、現実の実感や路上の映像的風景から召喚されたものである気がするのだが、それが圧倒的に凝縮された「言葉」になっている。絵を言葉にしたり、言葉を絵にしたりすることの間には思ったより大きな隔たりがあるのだが(簡単に言葉になるのならそれは恐らくもともと言葉であった)、桜井や春樹の営みはその懸隔を見事に乗り越えているような印象がある。

この切実さは、もちろん作文の技術的な問題を抜きにできないのだが、それよりも強力な後押しがあるような気はしていた。なぜ人はこのような言葉を吐くことができるのだろうか。たとえば三島由紀夫谷崎潤一郎を評価して、彼は他人の評論家としては三流だったが、自己自身については一流の批評家だった、ゆえにあれほどの傑作を書き続けられたということを述べている。桜井もまた自己批評的に歌ったからこそ、聞いている我々にこれほど強く語りかけられているのではないか。

とはいえ自己批評的とはどういうことなのだろうか。ごく初歩的にいえば、それは自分が思い描いているもやもやとした感情を言葉に置き換えることである。言葉にすることそれ自体が治療的(セラピー的)であることはよく言われていることでもある。それゆえに、それは決して簡単な作業とはいえないのだが、ひとまずシンガーソングライターたちが自分について歌っているのだとすれば一定それが達成されている可能性がある。自分で書いて自分で歌うことが重要なことは、たとえば悲劇を歌ってばかりいるX JAPANの歌がどこかフィクショナルなことからも分かる。Xの歌はもっぱらYOSHIKIの破滅的な自己認識を中心に歌われており、特に「Tears」などは亡くした父について歌っている点で自叙伝的である。しかし私はYOSHIKIの悲劇歌の根底には常にある種の力強さを感じていた。それは社会的にサヴァイヴし続ける現在のYOSHIKIの姿とぴったり重なるものであった。彼は自分では歌わない。むしろその徹底したプロデューサー気質は、あれだけナルシスティックなはずのYOSHIKIのクリエイティブを、徹底的に作品として成立させる重要な資質であると感じる。一方で、hideは自分でも歌うようになった。hideは軽快でポップで、その方向性におけるサイケデリックな歌を作っていた。表面的な比較ではYOSHIKIの方が悲劇的で、hideはむしろ喜劇的だった。だがむしろ僕はhideの根底にこそ悲劇的なものを感じていた。もしかしたらこれはhideの死を踏まえた逆算的な感想に過ぎないかもしれず、それを否定することはもはやできないのだが、ともかくそうだった。hideとYOSHIKIの比較は別の問題なのでこの辺にしておく。

自分で書いて自分で歌うことは単にナルシスティックである非常に狂乱的である。それは否応なく自分の内面との対話を、全てとはいわないが、いずれ、要求するものはずだからである。とりわけそれを行う主体が健全で安全な場所にいるのではなく、危険で不安定な場所にいるのならなおさらだ。そういった状況で歌われる歌が、どのような形を取るかについては一様ではない。とはいえ誰に向かって歌われているかくらいは大別できる。それは自分に向けてか、それとも誰かに向けてか、だ。

名もなき詩」の歌詞を不倫の最中という情報を踏まえて読んだ場合、ほぼ、どんな人間が読んだとしても、間違いなく桜井が彼自身の心情を歌ったものだとしてしか読めないはずだ。それは境遇がそうだからではなくて、内容がそのものズバリだからだ。そして、彼自身の感情を記述したものだとするならば、その歌詞は異様なまでに明晰である。一言一句とりあげてそれがいかに真に迫っているかを検討することは、正直めんどうくさいし、それ以上に極めて痛々しい。彼が前婦に向けて歌っているか現婦に向けて歌っているのかが判然としないその振動も含めて、あまりにもリアルすぎる。

この言い方は微妙だが、こんな歌がよくダブルミリオンを売り上げたものだと思う。もちろん曲は圧倒的に素晴らしい。だが、意味を読んでいけば、あまりにもきな臭すぎる。カラオケ文化が浸透しはじめた日本において、意味を忘れた死骸のような言葉がただただコマーシャリズムの中で流通しきっただけのことだと考えていればよいのだろうか。それとも、そこに込められたメッセージがあまりにも人間の中で本質的すぎたがゆえに、誰もが知らずに共感せざるを得なかったのだろうか。

とはいえ、いささかゴシップ的ではあるが、このような不倫や悲恋といった内容が常に大衆娯楽として重要なテーマだったことは今に始まった話ではない。その意味では、まさに意味内容として人々がこれを受け取っていた可能性はある。それは遅れてきた「文学の象徴性失墜」という問題とも連携しているだろう。ある一人の作家が時代や社会を代表できた時代の終わり。アーティストもまた、もはや、薄まりきった抽象的な歌詞でごまかしながら、身体的な同期によって小規模な人々を同一化させることしかできなくなったことは、ゼロ年代のチャートを見ていけばどことなく勘付くことだろう。そもそもグループアイドルの時代にシンガーソングライター的な存在様態は構造的に成立しにくいように思われる。