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被害者遺族の足並みは本当に一致していないのか。

 松谷創一郎さんが書いた例の出版物についての小論に考えさせられました。冷静に出版の意義を検討する内容で、広く読まれるべき文章だと思います。

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20150613-00046627/

 ただ、下記の内容はミスリードだと思うので念の為指摘しておきたいと思います。

遺族のひとりである土師守さんが出版中止を求める声明を出した。一方、もうひとりの遺族である山下京子さんは、1月に逮捕された名古屋大生の事件を受けて、今年の3月に「彼の生の言葉が社会に伝われば、そういった犯罪の抑止力になれるのでは」と述べている。『絶歌』の出版は、この山下さんの言葉を受けたものかもしれない。なんにせよここで指摘しておきたいことは、亡くなったふたりの遺族の意見が一致していないということである。


 しかし、土師さんと山下さんの意見は本当に一致していないと言えるのでしょうか。上記の「一致」は、「出版中止」と「彼の生の言葉が社会に伝わ」ることの内容の間の関係を示しているものだから、<完全に一緒というわけではない>というような軟な意味合いではなく、(対立しているとまでは事情的に言えないが)<かなり違ったものである>というニュアンスで書かれていると言えるでしょう。

 実際にはどうでしょうか。もちろん本人たちの現在の意見をお伺いするのがいちばんよいのですが、現在明らかになっている部分だけで考えても、むしろ被害者遺族の気持ちは、どちらかと言えば「一致」していると見るのが自然ではないかと思われます。
 まず確認すべきは、土師さんの家には毎年少年Aから手紙が送られていたということです。これは山下さんの家も同様のようです。そして、上記の引用において、少年Aの「生の声」の意義について述べた山下さんの意見が、直前に届いた少年Aからの手紙に由来するものであることもニュースソースから明らかになっています。これは2015年3月のものです。ところで、出版に対する反感を示している土師さんもまた、2015年の5月段階では、その月に少年Aから届いた手紙を読むことによって、少年Aに対する態度が大きく軟化したことが同じくニュースソースから明らかにされています。
 このことが意味するのは、単にマスコミに意見を露わにしていないだけで、山下さんご遺族も土師さんご遺族と同様に、今回の出版の報せに大きく傷つき意気消沈している可能性が高いということです。そういったことを割り引いて考えたとしても、事実は分からないのであって、土師さんと意見が「一致」していない、などということは書かれるべきではない、と私は思います。
 どうしてそういうことが言われなければならないかというと、このような問題では、遺族感情を代弁したものが大義を僭称する傾向があるからです。出版の是非という大問題を考える上では優先度の低い論点ではありますが、問題を無闇に混乱させる可能性があったので、この点については注意しておく必要があるでしょう。
 
 
※松谷さんが引用しているもの以外では、この辺のサイトでニュースソースが見れます。
blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/ce1bdab2792774f535ea6615bf3702a1