気学を参考にして生きてみたが、やめることにした

 年始から色々模索をしていて、そのうち一つに「気学」を参考にしてみることをやったのですが、結果的にあんまり効果を感じられなかったのでやめることにしました。気学というのは、大雑把に言えば風水みたいなものです。一時期はやった四柱推命もこれのバリエーションみたいなものですね。統計学だということで単なる占いではないとも言われますが、やめることにした今にして思うと、千年前はともかく、この百年の統計的なデータアップデート履歴がどこにあるのかは非常に謎めいて感じられるところです。

 そもそもなんで気学などを参考にしだしたかというと、実は主体的に生きるためでした。「主体的に生きる」は今年の重要なテーマです。「主体的に生きるとはどういうことか」は様々な言葉で説明したいところでありますが、ひとことで言えば、自分の予定を自分で決めることができる、ということです。受動的な人は人に言われるがままにスケジュールにアポイントを詰め込んで、それに従ってーーもっと言えば縛られて行動することになりますが、このことは人間の自由を(単に予定を埋めていること以上に)縛ります。しかし一方で、1週間のブランクスケジュールがあった際に、そこにどのように何をプロットしていけばいいかは、かなり手探りなものであり、しばしば合理的な根拠がありません。そこで参考程度に占いのようなものを利用してみようかと思ったのが第一です。第二は、気学という言葉を僕が知ったのが、敬愛する島みやえい子先生のラジオだったので、まあ悪い印象を持っていなかったから、ということですね。彼女が気学の先生をラジオのゲストに呼んでいたことがありました。気学というのは安岡某という有名な人がメジャーにしたジャンルで、何やらフィクサーめいていて凄いですが、詳しくは各位で調べられたし。

 少しは参考にしようと思った経緯は、実際には昨年の強烈な不幸などが影響してのことでもありまして、これをやめても厄年とか厄祓いはきちんとやろうと思うのですが、気学に従って月や毎日の吉凶を気にしながら生きてみるも、当たり前のことかもしれませんが、ほとんどさしたる影響や因果関係を感じられませんでした。それから気学では方位が大事らしいのですが、それに従うとかなりの場所が不運なので行くことができません。そもそも昨年の評価をするために昨年の気学のリストを手に入れようかと思ったのですが、古書店にはあるようでしたがネットには見当たらず、あえてアクセシビリティを低くしているのかな、というところも気になりました。昨年の「今年の運勢」を見て、昨年を振り返ってみるとかなり妥当性が分かると思うんですよね。僕はやることができませんでしたが。

 そういうことでやめることにしました。これがきっかけということでもないですが、1月は受動的な失敗や悪癖の復活でかなり痛い目を見てしまったので、運否天賦ということ自体がかなりよくない作用を起こしてしまった気がしますし、そもそも「主体的に生きる」というテーマを見失っているのでこれはまずいと感じた次第です。とはいえ、実験としてはなかなか有意義で「人事を尽くして天命を待つ」ということを忘れるべきではないということも感じます。どんなに努力してもアクセスしきれない領域については祈ることしかありません。ということで気学を積極的にディスることはしませんし、有効に活用出来る方はなさるとよいかと思います。ちなみに気学によると僕は今年は「頂上期」に当たるらしいですね。月や年という中長期の単位で人生設計をすること、そしてそういうことを可能にすることはとても大切なことです。